LOGIN十分ほどして、高瀬さんが入ってきた。
換気口の低い音だけが、窓のない部屋に残っていた。 顔はいつもと同じ冷静さだったが、目元だけが少し硬い。「会場側の初期確認が出ました」 高瀬さんはテーブルに資料を置かず、まず口頭で告げた。「閲覧は別室で、関係者と法務担当の立ち会いのもと行います。映像のコピーは現時点では渡されません。保全番号だけ先に発行されました」 保全番号を聞き取り、私は手元のメモに書いた。「お願いします」 私は頷いた。 今は、こちらの手続きが済むのを待つしかない。 今ここで動画を奪って拡散すれば、未央と同じ土俵になる。 やがて、会場側の法務担当と警備責任者が入ってきた。 大型モニターではなく、確認用のノート端末が一台だけ置かれる。録画ファイルの再生前に、閲覧者名、目的、時刻が記録された。 画面の中には、階段の全景が映っていた。 私が立っている。 未央が近づく。 袖を掴もうとする。葛城静司から連絡が入ったのは、未央が九条側の滞在施設へ連れていかれた翌朝だった。 端末の着信音が短く鳴った。 高瀬さんの端末に、正式な面談依頼として届いた。宛先は私ではない。榊家の法務窓口。件名は短い。 旧白桐産院資料について。 その文字を見ただけで、昨夜の画面が戻ってきた。 青嶺療養院。手動メンテナンス。KMS_KJ。 同じ時刻に沈黙した三つのカメラ。 誰かが、声を届かせる前に道を消そうとしている。「会いますか」 律は、いつものように聞いた。 私はカップの縁に指を置いたまま、答えを決められなかった。紅茶は入れてもらったばかりなのに、もう香りが遠い。昨夜、ほとんど眠れなかったせいで、喉のあたりだけが乾いている。「会わなければ、また葛城さんの都合で話が進みますよね」「その可能性はあります」「ですよね」 少しだけ笑おうとして、うまくいかなかった。 葛城は、私に真実の欠片を渡してきた。守り袋の意味、産院の名、二人の赤ん坊、九千万円の取引。どれも、知りたくなかったのに、知らなければもっと長く踏まれていたものだった。 葛城の名前を見ると、腹が立つのに、画面を閉じることもできなかった。「会います」 私は言った。「ただし、こちらの部屋で。録音あり。高瀬さん同席。榊さんも」 律が、少しだけ目を上げる。「話さない方がよければ、黙っています」「それは無理でしょう」「努力はします」 昨日と同じような言い方だったのに、今度は声が緩んだ。 律の目元が、かすかに動く。 私はカップを置いた。「でも、いてほしいです。私が、葛城さんに怒るために」 律は、そこで笑わなかった。「……ええ。そばにいます」 面談場所は、榊グループ法務部の小さな会議室になった。壁は白く、テーブルは濃いグレー。中央には録音機と議事録用の端末だけが置かれている。 病室でも、屋敷でも、書庫でもない。 こういう場所で聞く
見張られている。 扉の外の足音を聞いた瞬間、未央は立ち上がった。 守られているのではない。 置かれている。 未央はドアへ向かい、勢いよく開けた。 内側からは開く。廊下にも出られる。外に立っていた女性スタッフが、にこりと笑った。「何かお困りですか」「少し歩きたいだけ」「庭園側のラウンジでしたらご利用いただけます。外出は管理者の確認後になります」「外出できないの?」「安全確保のためです」 また、それだ。 未央はドアを閉めた。「安全確保」という札が、さっき署名した紙にもあった。 スマートフォンが震えた。 司からではなかった。 九条康生。 未央はすぐに通話ボタンを押した。「康生さん、ここ、何なんですか」『落ち着ける場所です』 声は穏やかだった。「外に出られないんですけど」『今出れば、あなたは悪意ある解釈の前に立たされる。栞さん側は記録を持っています。あなたが不用意に話せば、会場での印象が固定される』「じゃあ、どうすればいいの」『何もしないことです』 未央はスマートフォンを握り直した。 以前にも、同じことを言われた。 誰かが動くように、置く。 何もしないこと。 今度は、置かれているのが自分だった。「守られているんですよね」 確認しなければ、怖かった。 電話の向こうで、康生がわずかに沈黙した。『あなたは、必要な場所にいます』 まただ。 必要な場所。 本物の娘だとは、言わない。 被害者だとも、守るとも、はっきりとは言わない。「私、本当に如月家の娘なんですか」 声が勝手に出た。 康生は答えるまでに間があった。『未央さん。今、その問いはあなたを弱くするだけです』「答えてよ」『落ち着きなさい』「答えて!」 自分の声が部屋の壁に跳ね返る。
――私は大丈夫。しばらく一人にして。 送信には時間がかかった。 既読はつかなかった。 その頃、司は会場の救護室前で、未央の行き先を聞いていた。「九条側で保護したとしか伺っておりません」 会場スタッフの返事は、丁寧だった。「保護って、どこへ」「個人情報に関わりますので、こちらからは」「俺は婚約者です」 言った瞬間、自分の声が虚しく響いた。 婚約者。 その言葉は、もうどれほどの重さを持っているのだろう。 さっき、未央は自分に来ないでと言った。 その前に、自分は未央のことを疑っていた。 さらにその前、三年前には、栞の電話に出なかった。 司は手の中のスマートフォンを強く握った。「桐生様」 背後から、相良さんの声がした。 司は振り返った。 相良さんは責める顔をしていなかった。むしろ、いつもと同じ、礼儀正しい距離のまま立っている。「未央様の所在について、こちらも正式な情報は受けておりません。九条側へ照会は入れますが、即時回答があるとは限りません」「栞は」 口から出てしまってから、司は後悔した。 なぜ、ここで栞の名を出すのか。 相良さんは一度だけ司の顔を見た。「朝霧様は、会場側の事情確認に応じておられます」「そう、ですか」「桐生様」 呼び止められ、司は顔を上げた。「今、誰かを助けたいのでしたら、見てないことを見たと言わないことです」 静かな声だった。 司は返す言葉を失った。 三年前、彼は見ていなかった。 なのに、見ていないことを、見た人たちの側に立って信じた。「……分かってます」「そうですね」 相良さんはそれ以上言わなかった。 相良さんが去ったあとも、その言葉が残った。 司はスマートフォンを握り直した。 九条家の代表番号へ電話をかける。受付は丁寧だったが、未央という名前を出した途端、確
流れていく街の明かりが、窓のフィルム越しに鈍く滲む。さっきまでいた会場から離れるほど、胸の中の怒りが少しずつ形を変えた。 車内は静かで、タイヤが路面を拾う音だけが続いていた。 怒りではない。 焦りだった。 栞は声を荒げることさえしなかった。 涙を見せることもなかった。 未央を責める言葉ひとつ口にしなかった。 ただ、記録を求めた。 あれでは、未央の方がひどく幼く見える。 倒れたのは自分なのに、なぜそうなるのか分からない。 スマートフォンを取り出すと、秘書が声をひそめた。「申し訳ありません。到着までは外部との通話をお控えください」「どうして」 その問いは、誰にも拾われないまま落ちた。未央は視線を下げた。「混乱を避けるためです」 未央は男を睨んだ。「誰から言われたの?」「九条康生の指示です」 康生。 その名を聞いただけで、張りつめていた肩から力が抜けた。 あの人なら、どうにかしてくれる。会場の映像だって、きっと何とかする。栞がどれほど手順を守っても、見る人が見なければ、映像はただのファイルだ。 そう思いたかった。 車は都心から少し離れた、静かな通りに入った。 到着したのは、ホテルではなかった。古い洋館を改装した会員制の滞在施設のように見える建物だった。看板はない。門柱には、小さく九条関連の管理会社名だけが刻まれている。 中へ入る時、未央は名前を書かされた。 如月未央。 その横に、利用目的として「休養・安全確保」と印字されている。「これ、何ですか」「滞在記録です」「署名しないと入れないの?」「手続き上、必要です」 男の声は、こちらの苛立ちを受け流すほど丁寧だった。 その丁寧さが、かえって腹立たしかった。 未央はペンを握った。手元が少し震えている。署名欄の上には、外部連絡の一時制限、施設内での面会は管理者承認制、情報漏洩防止のため滞在場所を第三者に伝えないこと、という文言が並んで
九条家の秘書が「保護」と言った瞬間、私は未央の方を見た。 救護室の消毒液の匂いが、廊下まで残っていた。 医務室の扉の奥で、彼女は肩に薄い湿布を貼られていた。泣いた後の顔で、けれど目だけはまだこちらを探している。 私は近づかなかった。「九条側に渡していいんですか」 思わず高瀬さんに聞いた。「本人が同意すれば、止められません」「同意してるように見えますか」 高瀬さんは答えるまでに間があった。 その沈黙で、答えは分かった。 律が横で静かに言う。「康生は、逃げ場を差し出す形が上手い」「逃げ場」「本人が選んだと思える場所ほど、あとで出にくい」 その言い方に、さっきの「安全確保」の書類を思い出した。 未央を助けたい、とは思わない。 あの人は、私を何度も壊そうとした。三年前も、今日も。 目の前で別の檻に入れられていくのを見て、胸がすっと軽くなることはなかった。「私は」 言いかけて、やめた。 私は、何を言おうとしたのだろう。 止めたい。違う。助けたい。違う。ざまあみろと言いたい。たぶん、それも違う。「記録だけ、残してください」 結局、そう言った。「未央さんが九条側へ移動した時刻、同行者、本人確認、同意の有無。分かる範囲で」「分かる範囲から当たります」 高瀬さんは頷いた。 高瀬さんはすぐにメモへ落とした。◇ 未央が九条家の車に乗った時、まだ膝は痛んでいなかった。 肩も、本当は少し擦っただけだった。 救護室で冷却材を当てられ、念のため医療機関を受診するかと聞かれたが、彼女は首を横に振った。病院へ行けば、診断書が残る。診断書が残れば、痛みの場所も、程度も、全部記録になる。 今の未央には、それが少し怖かった。「こちらへ」 九条家の秘書だという男が、後部座席のドアを開けた。 車内は広く、革の匂いがした。窓には薄いフィルムが貼られていて、外から中は見えにくい。未央は
映像が残っていた安堵と、残っていなければまた疑われたかもしれない悔しさが、同時に押し寄せた。 敷物の上では、車椅子の音さえほとんど吸われていた。「朝霧さん」 律の声がした。 私は画面から目を離さずに答えた。「見ています」「目は逸らしていません」「ちゃんと、見ています」 自分に言っているのかもしれなかった。 映像確認が終わると、会場側の法務担当がモニターから目を離して言った。「現時点の映像上、朝霧様による接触は確認できません。正式な事故報告書では、第三者による強制的接触なし、と記載する方向で整理します」 第三者による強制的接触なし。「医務室の記録は」 高瀬さんが確認した。「救護記録として保存します。診断行為じゃありませんが、本人申告の痛みの部位、処置内容、搬送の希望有無は残ります」 会場側の法務担当が答える。「未央様は外部医療機関への搬送を希望されませんでした。ただし、後日症状を訴えられた場合に備え、救護室での初期対応記録は封緘します」「ありがとうございます」 私が頭を下げると、法務担当は視線を落とした。 この人も、面倒な場に巻き込まれているだけだ。 でも、巻き込まれた人が手順を守ってくれたことで、私は三年前と同じ底へ落ちずに済んだ。「朝霧様」 高瀬さんが、今度は私へ向き直った。「この件について、こちらからSNS等へ発信することは避けます。会場側の公式報告、必要に応じた法的照会、関係者への通知に留めます」「その形でお願いします」「未央様側から虚偽の発信があった場合は、反論可能な形で準備します」 私は頷いて手帳を開いた。会場側の法務担当も、手元の書類へ目を落とした。 法務担当が保全番号を読み上げた。高瀬さんが一度だけ復唱する。 私は手帳へ番号を書いた。最後の数字でペン先が引っかかり、紙に小さな穴が開いた。「すみません」「急がなくて大丈夫ですよ」 法務担当が一瞬だけ笑い、すぐ仕事の顔へ戻った。
「律様、お時間です」 低い声が、扉の外から響いた。 広い執務室の奥で、榊律は窓の外に背を向けて座っていた。 机の上には、如月家に関する調査資料が並んでいる。 その一番上に、朝霧栞の写真があった。 コンビニの制服姿で、視線を逸らすように横を向いている。ひどく疲れた顔をしているのに、背筋だけは真っ直ぐだった。 律は写真の端に指を置いた。 三年前の豪雨の夜。 高架下で膝を抱えていた少女の横顔を、彼は覚えている。 名前を名乗ることも、声をかけることもできなかった。 ただ傘を差し出した。 そのあと彼女がどこへ消えたのかを、ずっと探していた。 「やっと、見つけ
司は廊下の壁際に立ち、こちらを見ていた。 三年前より少し痩せたように見える。 けれど、きちんと整えられた髪も、上質なスーツも、昔と同じだった。 何も変わっていない。 そう思ったのに、胸の奥だけが一瞬、昔の痛みを覚えてしまった。 「栞……」 呼ばれた名が、廊下に落ちる。 私は足を止めなかった。 「話があるんだ」 司が一歩踏み出す。 その指先が、私の袖をかすめた。 反射的に振り払った。乾いた音が、静かな廊下に響く。 「今、あなたと話すことはありません。私は如月家の人間でも、あなたの婚約者でもありません」 司の顔がこわばった。 「栞、俺は……」 「
病院の個室には、消毒液の匂いと、心電図の小さな音が満ちていた。 ベッドの上の静江さんは、記憶の中の人よりずっと小さくなっていた。 頬は痩せ、手の甲には細い血管が浮いている。酸素マスクの下で、唇だけがかすかに動いた。 「静江さん」 名前を呼ぶと、まぶたが震えた。 ゆっくり開いた目が、私を捉える。 濁りかけた瞳の奥に、ほんの少しだけ昔の光が戻った。 骨ばった手が、シーツの上を探るように動く。点滴のチューブが、白い布団の上でかすかに揺れた。 私は慌てて、その手を両手で包み込んだ。 驚くほど冷たい。 それなのに、弱い指先が私の手を握り返した。 「し……お……り
午前二時過ぎ。 私を捨てた父が、コンビニのレジの前に立っていた。 「栞、少し付き合え」 自動ドアが閉じる。外の湿った夜気が途切れ、店内には揚げ物の油と、温めすぎたおでんの匂いだけが残った。 夜勤の店員は私一人。レジ横のホットスナックケースが、じり、と小さく音を立てている。 如月隆一。 如月グループの代表で、かつて私が父と呼んでいた人。 三年前、私を家から追い出した男だ。 私はバーコードリーダーを静かに置いた。薄い手袋越しの指先が震えている。それが、何より腹立たしかった。 「……何の御用ですか」 「話がある」 「申し訳ありません。雑誌と公共料金のお支払いでし